人生最高の幸せを掴みとるためには行動あるのみ ~第三話~

見出し画像
 

タイで引き寄せた私自身の最高のしあわせ

タイ移住は私にとって最上級の転機でした。

タイは私の人生に大きなきっかけをくれた、
神のような国でした。

そこで私は、夫に出会ったのでした。

タイにきてからすべてが好転したのです。

モルディブでは島暮らし。
6人でルームシェア

マレーシアではプライベートもない、普通の客室でルームシェア

 

タイでの転職はアシスタントマネージャー。

課長の1個手前のようなタイトルをいただきました。

住む場所は会社指定。
ホテルのレジデンス(家電の揃ったマンションのような客室)を与えられました。

リビング付きの1ベッドルーム。
キッチン付き。
ホテル同様に清掃もしてくれる。
ベッドシーツもタオルも毎度ふかふか。

ホテルはバンコクの中心地にありました。

周りには多数の大使館や大手のオフィス。
住んでいた当時はひと月240,000円ほどの価格帯のお部屋だったと思います。

その暮らしぶりは、
知らない人から見るとまるでセレブ。

ちなみに当時のタイ人の最低賃金はひと月90,000円ほどでした。

 

もちろんいいことばかりではありません。

モルディブやマレーシアとは全く違ったお仕事。

初めてのレストランというお仕事に就きました。
アシスタントマネージャーという役職もはじめての経験。

25歳にして10人の年上のスタッフを持つ。
レストラン経験も豊富なスタッフたち。
未経験の若造がどうするべきか悩みました。


私の強みは事務作業。
役職者特権ですね。
日々のレポートの作成や月次のPL作成は私の担当になりました。

レストランサービスはド素人。


でも、他の人よりも優れているところがある。
これで自尊心を保ちました。

しかし、レポートに携わらない役職者以外のスタッフから見ると、

サービスもできない。
年下の子娘。
マネージメントの能力もない。

そんな私を馬鹿にするスタッフがいたのも事実です。

スタッフの連絡をやりとりをする
グループLINEから外されたこともあります。

この時はさすがに、色々と挫折をしてきた私でも傷つきました。

こんな悩みは可愛いものだと知るのは1年後。
さらに大きなプレッシャーにさいなまれるようになります。

まさか在タイ中にクーデターが起きるなんて

画像2

タイ転職して1年、タイでクーデターが発生。

外国人はタイ旅行を避けるようになりました。
それによって観光業も大打撃。
一気にレストランのビジネスも落ち込みました。


タイには約70,000人の日本人が住んでいる。
「日本人に営業をしてこい!」
部長から指示が出ます。

日本人がたくさんいる。

見かけはまるでブルーオーシャン
でも実際はライバルだらけ。
日本料理のレストランは年々増加。

国の状況も相まって、どんどんと苦しい状況に落ちていました。

部長からのプレッシャーが日に日に増していきます。

当時レストランには私の他に、2人も日本人シェフが常駐。


ホテル内のいちレストランとしては、日本人の人件費があまりにも大きい。
しかし売り上げは下がる。

そんな状況で、レストランに貢献していない。
そう判断された私はプレッシャーを受け、
それが嫌になり逃げ出すように辞表を出しました。

画像3

いい子ちゃんで居続けたかったから逃げ出したのです。

有給消化中の1ヵ月で、次の仕事をみつけなければなりませんでした。
当時27歳の私。


この時は日本に帰りたいと思わず、タイで引き続き挑戦したいと思っていました。

ホテル業界から出よう。
10年頑張った。
逃げたのにやり切った感がありました。

でも、ホテルの仕事以外、今までしたことがありません。
生まれて初めて転職エージェントに登録。

面談に行ったのは12月のクリスマス頃。

私が探していたのは日系企業
多くの日系企業が日本同様に年末年始は長期休暇。
焦る私に、紹介された会社は3つ。
すぐに3社とも面接。
全て一次面接は合格。

ただその中でも、私がやりたかったのは秘書という仕事。

それができるのは、日系企業の車載パーツ工場でのお仕事でした。

ここの社長との出会いで人生が好転する。

面接でお話しをした直感で、
そんな根拠のない自信が芽生えました。

信じ続け、願いが叶い続けた私は劣等感を忘れた

画像4


二つ返事で決まり、タイを出ることなく無事に転職。

そこから生まれてはじめて自分の力で一人暮らし。
家を探し、
引っ越しをし、
新しいことに挑戦。

新しい会社で働き始めてからは
毎日が本当に楽しかった。

自分の特技「英語」を生かしたお仕事。


国外のグループ会社からタイにいらっしゃる方々のお手伝い。
会社内の従業員向けのイベント運営等。
今までの経験が十分に生かせる場所。
そんな会社に飛び込むことができました。

ホテルを出たことで家を借りるなど、
固定費は増えました。

でもそれ以上に給与が上がり、
旅行やゴルフ、
今までやりたくてもできなかったことに
どんどん挑戦しました。

毎日が楽しくて仕方ありませんでした。
そして、奇跡的な運命の出会いをします。

駐在で来ていた日本人の独身男性との出会い。
夫です。


マレーシア在住の友人が遊びに来る。

シンガポール在住の友人と一緒で、
その子のタイ在住のお友達と一緒に食事をするよ。
一緒にどう?

なんともインターナショナル!
楽しそう!ぜひ♪

意気揚々と参加しました。

そして、そこで出会ったのが夫です。

夫に出会った時の印象は、
日本人の男性がひとりでタイにいるなんて変わってる。
そう思いました。

大抵の大手の駐在員は、駐在をきっかけに結婚。
家族帯同で移住をしてきていました。

1人できている人は、
タイの夜遊びが好きか、
実は男性が好きと言うような人が大半。

ホテル勤務時代はそんな方たちの接客をしていたので、偏見の塊でした。
そして、この偏見はタイにいる多くの日本人女性が持っていました。

その夜はご挨拶程度に名刺交換をしただけ。

特に話すこともありませんでした。

ただ、その後友人たちが気を回してくれてからは
周りも驚くほどとんとん拍子で交際がはじまりました。

 

分かれ道


出会って、一月後にはクリスマス。

私はこのチャンスを逃してなるものか!
こんなに素敵な男性に出会うことなんか一生ない!

そう思いました。

理想の彼氏像は、
この人私に尽くしてくれるなんて嬉しい!最高!

夫に出会うまではそんなふうに思っていました。

私の知らないことをたくさん知っている。
私以上に引き出しをたくさん持っている。
この人のこともっと知りたい。

夫はそう思えるはじめての人でした。

クリスマスにデートの約束。

ホテルのクリスマスディナーに行きたいとリクエスト。
プロ彼女のように100%狙ったわけではありません。

ただ、
タイでも有数の高級ホテルでのディナー
素敵な夜景
お酒も飲んでいる
30代前半男性
20代後半女性と2人きり

告白されたらいいな。
いや!この状況で告白されるしかない。
変な自信がありました。笑

ただ、相手の緊張が伝わり私も緊張していました。
告白されたのに聞き逃し、
もう一度言ってくださいとお願いしました。笑

でも、この出会いで私は
「天国と地獄」
両極端の感情を持つようになりました。

忘れていた劣等感が肩をたたいた

頭抱える

22歳で海外に出た私。

日本の友人の結婚式には帰ったことはありません。
「結婚」「妊娠」「出産」
同年代がどんどんと先に進んでいく、
そんな環境とは程遠い暮らしをしていました。

自分自身で働き、
自分自身で好きな国に行き、
心の底から自由!

信じこんでいました。

ただ、駐在員と付き合う。
そして、その周りの人たちとお近づきになる。

自由だ!
そう思っていた気持ちの裏に隠れた不安が
一気に爆発しました。

・彼氏はいるが結婚していない
・仕事はしているが年金はない
・保険にも入っていない
・日本から離れすぎた。
 今後日本に帰ったところで馴染めるかがわからない
・駐在員のように家賃補助や駐在手当などの
 福利厚生で守られていない

会社で秘書をし、日本人のサポートをしているから見えてきた。

今まで見ないふりをしていた不安が、
良い意味でも悪い意味でも
一気に自分の身近になってしまいました。

画像7

結婚すれば劣等感から解放されると信じていたんです。

私は結婚を焦りました。
付き合いだして3ヶ月。

29歳になった私は必死でした。

「一緒に住みたい」と言ってぐっと押してみたり
タイは停電がよくあるのですが、
そんな時に助けてと押しかけてみたり。

それでも、付き合いだして1年を過ぎるまではのらりくらりとされました。

付き合って1年目のクリスマス。
頭から結婚の文字が片時も離れません。

30歳の壁。


女性にとってはかなり高いものかもしれません。
その時の私はこの数字に取りつかれました。

ここで何もなかったら
30歳になったら国を変えよう。


そう思い、中国転職をも考えるようになっていました。

もっと多くの人と話したい。
中国語を話したい。

と言う自分の夢に近づきたいと切り替えていこうと思ったのです。

付き合って1年が近づいてきた頃、
ご両親の話をしてくれるようになりました。

プロポーズははっきりとしたものはありませんでした。

ただ、

「お金のことは心配しないでいい」
「好きなことをしていてくれればいい」

そう言われていました。

その言葉とご両親の話が出てきたので、確信。
これは結婚が近いなと思い、一人で浮かれました。


でも、そう簡単にはことは進まなかったんです。

画像8

あとで聞きましたが、
結婚を1年間渋っていたのは

「私の最終学歴=専門学校卒」

と言うのが引っかっていたそうです。

夫の家族は国立大卒や有名私大卒のエリートばかり。
お父様は大手メーカー勤務
お母様のご実家は開業医。
お姉様夫婦は医療従事者
夫自身は大企業勤務

かという私は、
最終学歴は専門卒
社会人8年で転職5回

ホテル業界柄、転職をして
スキルアップ&タイトルアップ」
をしていきます。

でも、それを知らない他の人から見れば、
ただふらふらとしているように見えたんだと思います。

これだけ見ると、夫のご両親は心配したと思います。

今ならそう思えます。
でも、当時の私はそんなふうに思えませんでした。

学歴が無いと結婚できない?

ただ、悲しくなりました。

数日後「釣書(つりがき)が見たい。」
釣書とは、家族の経歴をまとめたもの
連絡がありました。

身内のことをこんなにも調べられるのか。
当時は自分が疑われていると言う気持ちでいっぱいでした。

劣等感だらけの私は、
家族の偉大さに改めて感謝しました。

私の家族は6人家族。

父は国立大卒、大手企業管理職。
母は専業主婦。
忙しい父に頼れることが少ないなか、
4人の子どもを育て上げました。

弟は、国立大学院卒、大手企業の設計技術者。
妹2人は医療従事者。

私の家族は、私以外は凄い人たちばかりです。

そう、私は家族の中で落ちこぼれなんです。

結婚で改めて強く
「劣等感」
を抱くようになっていった私。

人生は暗転していきました。


To be continued....★

第四話でお待ちしております!

ワンクリック世界につながる (1)