ノーバ行政処分の裏側で起こっている事 ~業務停止が毎年起こる ネットワークビジネスの問題点~

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NOVA ノーバ


NOVA(ノーヴァ・ノーバ)って聞いたことありますか?

副業でブログアフィリエイトを選ぶ方も増えていますよね。

知らないと本当に損する世の中。
ホンモノを知ることが大事であるを実感する今です。

NOVAはてっきり英会話レッスンのアフィリエイト商材の一つかと思っていたんです。

紹介するならどんなものか知りたい!

評判を調べていたら、英語レッスンとは程遠いものだと知ったのです。

業務内容は「オンラインカジノ」。


衝撃だったのは、

2021年6月22日付けで
行政処分
【新規勧誘15か月停止】


しかも、、、、

え?もう新しい会社作るの?!

という逃げ足の速さ。

 

~この記事はこんな人向け~

・NOVAで活動している/していた
・法律違反をしていない副業をしたい

 

NOVAアフィリエイト行政処分を受けたのはなぜ?

カジノ

NOVAはアフィリエイトと謳いビジネスを広げていました。

しかし実際は、

オンラインカジノの利用者を勧誘する
というネットワークビジネス

ネットワークビジネス
マルチ商法に関連する法律も適用されます。

その法律を無視をする。

そのことが問題になり、

消費者センターへの苦情も2200件を超えていた。

法律違反を犯したために苦情が発生する。

まぎれもない事実です。

 

勧誘方法のほとんどがDMを送り続ける

DMを送る

これでは虚偽説明。

正確な社名や正確な事業内容を伝えずに

「勧誘」「DMを送る」

ことは特商法に違反します。

これが1つ目の法律違反。


以前、NOVAにて活動されていた方曰く、

DMの場合は最低1日100件は送るそう。

「もっと稼ぎたいならわかってる?」

なんて言われることも。

もっとDM送らなくちゃと焦る気持ちになってしまいます。

毎日100件送る。
↓  
30日毎日送れば3000通。
↓  
3000通もDMを送り続ける。
↓  
その中から事業説明会に参加する人を見つける。

これって至難の業。

街頭のティッシュ配りやチラシ配りと変わりません。


登録は「契約」!でも、概要書面が交付されない?!

契約者

【NOVAの登録プラン】
Standard:
無料で使えますが、MLMの仕組みなし
Express :
入会金は約10万円。9個下の紹介者まで報酬が発生
Express Maximum:
入会金は約20万円。15個下の紹介者まで報酬が発生


【NOVAの報酬プラン】
・自分が紹介した人が支払った入会金の5%
・自分や組織のメンバーがカジノで負けた額の3〜5%
・世界売上の1〜7%を配分(条件あり)
が主な報酬。(大体こんな感じです)

さらにランクによっても色々なボーナスがあるようですが、複雑なのでここでは割愛。

例) 無料の会員の場合
「自分のリンクから登録した人が負けた額の3〜5%が報酬」

約10万円負けたとして5%は5千円。

30日間、毎日1時間DMを送る作業を続けて、
収入になるのが5千円って。

時給170円にもならない。



マルチ商法に該当するネットワークビジネスの契約においては、

契約時には概要書面交付が法律で定められています。

ただし、NOVAの場合

「概要書面不交付」

これが2つ目の法律違反。


NOVAアフィリエイト行政処分!なのに次の社名がもう決まってる?!

うずまき


そもそもNOVAは同じ業務形態で、

すでに2回の社名変更を行っています。

①AEアフィリエイト

②FLM(フューチャリングマルタ)

③現:NOVA

④そして、次の社名は「ERA(イーラ)」


行政処分中に次の社名がすでに出ているなんて、
ますます怪しすぎる。


きっとグランドオープンなんて銘打って、

「今なら新規事業立ち上げで稼げる!!」
先行者利益!!」

そんな勧誘を続けていくことが目に見えます。

ちなみに現段階の参加登録者は20代~30代が多数のよう。


お金は稼ぎたいけど、何も知らずにはじめるのは怖すぎる。

「簡単に稼げる」


なんて甘い言葉には要注意。

簡単に稼げるなら、すでにみんなが億万長者。


行政処分を受けるような会社が新しくなっても
体制が変わるとは思えない。


詐欺案件の広告を正しい目で見る。


そんなこと考えたことなかった?
SNSマーケティングって、あなたの周りにも溢れてるんですよ。

1%でもホンモノを見る好奇心が出てきましたか?
そんなホンモノ思考さんはこちらからどうぞ♪

ワンクリック世界につながる (1)


ちなみに、本場のカジノは
シンガポール」と「マカオ」がオススメ!

身分証明書(パスポート)をお忘れなく☆

プロローグ ~副業もホンモノを知れば怖くない~

「副業もホンモノを知れば怖くない」

断言します。

 

こんにちは、はるかです。

SNSについてど素人だった私が、

SNSを使った副業に挑戦し成長し続けています。

 

ワンクリック世界につながる (1)

 

こんな私は、20代の9年間東南アジアに住んでいました。
「日本に帰る事は無いだろう」
そう決意しての海外移住。

 

そんな20代を過ごしていましたが、幸運にもタイ在住時に日本人の男性に出会いました。
夫です。

 

毎日遅くまで働くエリート夫に楽をさせたい。
そんな気持ちから副業を探し、絶賛挑戦中です。

 

「劣等感」と「情報弱者

と言う2つのおもしを背負った私。

頭抱える

 

「ホンモノの副業はないのか」
血眼で探していたそんな時、出会ったのです。

 

まるで羽ばたけるかのように軽くなったのは、
本物の指導者に出会えたから。

 

世界でホンモノを見てきた私が、
思い通りに願いを叶えてきた私が、


この人なら信じられる。
そう直感で感じました。

 

上を向く花

 

私がどうやって人生を切り開いてきたか。
そして、好転させてきたか。
お話ししていきたいと思います。

 

 

ワンクリック世界につながる (1)

 

劣等生がホンモノを知って未来が開けた ~第四話~

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アイキャッチ

劣等感で運命を引き寄せたら人生が狂い出した

30歳になってすぐに運良く夫の日本出張が入りました。

私もタイから一時帰国しご両親にご挨拶へ。

私の不安とは裏腹に、笑顔で迎えてくださいました。

海外での経験、家族のこと。
子どもを4人を育てた母のことを特に褒めてくださったのは忘れません。
大好きな家族、そして母をとても誇らしく思いました。

それから1ヵ月後にタイで入籍。


結婚式は日本。
衣装合わせの日に、初の両家の顔合わせをしました。
普通の段階を踏んでいない。
海外に住んでいる特権だと思います。

無事に結婚式を済ませ、翌日帰国予定。

ここでやらかしました。
私の乗る飛行機はすでに飛んでいってしまっていたのです。

帰国する半日前にオンラインチェックインをしようとして気づき、約70,000円×2回分を散財しました。

「大丈夫だよ」

夫はそう言ってくれました。
申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが安心しました。


現地採用の身だった私。
憧れだった駐在員妻になった私は毎日が楽しかった。

「好きなことをしていい」


その言葉を信じ、
ネイルに乗馬にゴルフにと習い事に勤しんでいました。

毎日飽きるくらい楽しんでいた時

「好きなことしていていいよ」

この言葉と真逆の発言が時々出るようになってきました。

「日本に帰ったらこんな生活できないよ」
「日本に帰ったら働いてもらわないといけないと思う」


駐在員なので、日本に帰ったら手当がなくなり、
給与は下がるのは理解しています。

あひるのこ

ただ、そうは言っても夫は大企業勤務。

そんな夫の言葉を聞いても、
「そっか。そうなんだ。」
それくらいの考えでいました。

そう軽く捉えているつもりでいましたが、
この言葉は私をむしばんでいきます。

「お金の不安」

は心の底に蓄積されていきました。


日本に本帰国するまで夫の給与額を知らなかった。
そう、結婚に浮かれていたのです。

結婚して数か月。
妊娠しました。

ネムーン直前にわかり、
安全のため旅行は全てキャンセル。

散財してしまった。
お金がなくなる。

結婚して解消されたと思った不安。
「お金がなくなる」

私はどんどんと「お金」というワードに縛られていきます。

シンデレラ


自分から願って会社を寿退社。
社会から切り離された生活を望んでいた。

そんな生活にも「不安」と「不満」を感じる。
このままではおかしくなる。


そう思った時、
友人の紹介で英語の翻訳のお仕事が舞い込みました。

私はそれが楽しく、のめり込みました。

出産のために帰国。

夫の帰国も決まり、本帰国しました。

ひとりめ出産後2ヶ月半で社会復帰。

産後うつとは言いませんが、
おかしくなりました。

社会人初心者の20代のほとんどを海外で過ごした私。

日本人と働けるか不安
保育園入れるか不安
そもそも、日本で仕事が見つかるか不安

ただただ不安が募っていました。

運良くツテを伝って再就職。
がむしゃらに毎日働き、子育てに邁進。

日本に帰ってきて夫の給与を知りました。

ぶっちゃけ、こんなに大変な想いして働かなくてもいいのかも。
それくらい、生活に支障はありません。

強いて言えば、
子どもの教育費を捻出するにはちょっと足りない?
くらいな感じです。

でも、一度覚えた
「激しい劣等感と不安」
に取り憑かれた私はそんなふうに思えませんでした。

いい大学を出て、いい会社に入り、高給取り。

そんな夫。
周りには同じような方達が集まります。

劣等感の塊になった私は、

「子どもも小さいのに働くなんてすごい」

周りからのそんな言葉でなんとか平静を保っていました。

頑張れば認められる。

子どもも顧みず、
自分が平静を保つために仕事に没頭しました。

その甲斐もあり、昇格。
少し自信を取り戻しました。

 

劣等生の私が夫のために副業をはじめるまで

ひまわり (2)

昇格という目に見えた成果で、
少し平静をとり戻した。

夫の給与よりも少ない私。
ただ、この頃から今までの私が顔をだしはじめました。

私が稼いで必死で働いている夫を楽させたい。

元々働くのが好き。
キャリア志向の私。

夫が倒れてしまっては子どもたちも困る。
少しでも楽をしてもらいたい。

そんな気持ちがふつふつと出てきました。

それから1年後、ふたりめを出産。
育休中の私。

好きなことをしていたい気持ちは変わらない。
でも、会社に行けない今の状況。

産休手当、育休手当はあるものの、
やっぱり働いていた時よりも手取り額は少ない。
2ヶ月に1度しか入金がない。

しかも、育休手当は180日過ぎたら
67%の額から50%の額になってしまう。

お金を稼ぐ知識をつけるなら今しかない。


私は取り憑かれました。


コロナでこもりがちな時、

ふっと家で

誰にも会わずに仕事

ができないか。
そう思うようになりました。

一度気になると全力の私。
血眼になって情報収集しました。

すぐに目についたのは
ブログアフィリエイト

産休入ってすぐにブログ立ち上げるも、
やり方わからず、稼ぎにならず。
結局月数100円程度。

もっといい副業がないか。

夜中の授乳中も、
昼間子どもが昼寝している間も。
家事が疎かになるくらいのめり込んだ。

PC作業

でも、ネットを使った副業なんて怪しく見える。

情報弱者な私。


劣等感に取り憑かれても、
お財布の紐だけは堅かった。

自分を誇張するようなキラキラとした投稿。

起業塾はみんなで楽しくお茶飲みながら。
いやいや、この時代集まりなんて無理でしょう?

旅行サイトが大手と提携?タダで行ける?
え?この時代旅行行くのに年会費払って積み立てるの?
その額あれば、他の格安サイトで旅行行けるよ。

FXが無料?楽して儲ける?
楽して儲けられたらみんなすでに億万長者。

稼げないから、みんな副業探しでさまよってる

そう。
ネットの副業が怪しく見えるのは
自分が「情報弱者」だから。

調べ方も知らない。
比べ方も知らない。
真実を知らない。

 

一筋の光が見えた瞬間に魔法がかかった

上を向く花

リスクの少ないブログを自力で立ち上げた。
無料でできるTwitterの伸ばし方も知った。
どんどんとスキルアップもしていた。

でも、何かが足りない。

どうしてもマネタイズできない。
何をしたらいいかわからない。

でも、副業は怪しい。


そんな副業難民になっていた私の前に現れたのです。

一筋の光。

IT業界でも一目置かれる社長との出会い。
最後のピースがカチッとはまった。

望めば叶う。


私の人生は見えない何かに導かれている。
ここでも威力を発揮しました。

本物から学ぶが一番早い。

私は人生をかけて学んできました。

20代をかけて世界で本物のセレブを見てきました。

世界をまたにかける投資家。
世界有数のジュエリー創業家の一族。
世界のトップ企業の社長や役員。
世界で活躍する同年代の起業家。


本物を見てきたから本物がわかる。


だから、この人から学べば本物が手に入る。
直感が働きました。

今の私に何が必要なのか?

・タダで本物が学べる環境

・本物からの直接指導

・今までの自分ごと受け入れてもらえる
 「私の」ブランディング

思い描いた魔法がタダで手に入る。

本物を見てきた私。
本物からの指導を受けている私。

出会ってから数か月。

ネットってこんなに簡単なんだ。


じたばたともがいていた、
あの半年は何だったのかと思うくらい。

だから、高額塾や情報商材がすごくチープに見える。
嘘がわかるんです。

なんでこんな嘘がわからないんだろう。
キラキラと見せびらかすような
こんなセレブは見たことない。

世界を見てきた私だからわかるのです。

現在進行形で大手の会社にも勤務している。
周りにいる人もちゃんとした人が多い。

だから嘘がわかるんです。

 

ホンモノを知れば、何も怖くない

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本物を知る私だから教えられると思ったし、
だまされる人を減らしたいと思った。

劣等感や承認欲求から解放できると思った。


今この状況で多くの人が副業をはじめています。

仕事がいつ無くなるかもわからない。
何が本物なのかもわからない。
このやり方が正しいのかわからずに活動している。

そんな不安を抱えているのに、
私のように遠回りして欲しくない。

副業でも、

「正しいやり方」
で進めていけば成果はついてくる。


収入として目に見えてくる。

そのことを実感中です。

そんな私があなたに伝えたい真実。

知りたいあなただけにお伝えします。


最後までお付き合いいただきありがとうございました!

他では絶対に教えてくれない、副業の裏側。
本物を知りたくなったあなたをお待ちしております。

公式LINEよりお気軽にお問い合わせください :-)

ワンクリック世界につながる (1)

人生最高の幸せを掴みとるためには行動あるのみ ~第三話~

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タイで引き寄せた私自身の最高のしあわせ

タイ移住は私にとって最上級の転機でした。

タイは私の人生に大きなきっかけをくれた、
神のような国でした。

そこで私は、夫に出会ったのでした。

タイにきてからすべてが好転したのです。

モルディブでは島暮らし。
6人でルームシェア

マレーシアではプライベートもない、普通の客室でルームシェア

 

タイでの転職はアシスタントマネージャー。

課長の1個手前のようなタイトルをいただきました。

住む場所は会社指定。
ホテルのレジデンス(家電の揃ったマンションのような客室)を与えられました。

リビング付きの1ベッドルーム。
キッチン付き。
ホテル同様に清掃もしてくれる。
ベッドシーツもタオルも毎度ふかふか。

ホテルはバンコクの中心地にありました。

周りには多数の大使館や大手のオフィス。
住んでいた当時はひと月240,000円ほどの価格帯のお部屋だったと思います。

その暮らしぶりは、
知らない人から見るとまるでセレブ。

ちなみに当時のタイ人の最低賃金はひと月90,000円ほどでした。

 

もちろんいいことばかりではありません。

モルディブやマレーシアとは全く違ったお仕事。

初めてのレストランというお仕事に就きました。
アシスタントマネージャーという役職もはじめての経験。

25歳にして10人の年上のスタッフを持つ。
レストラン経験も豊富なスタッフたち。
未経験の若造がどうするべきか悩みました。


私の強みは事務作業。
役職者特権ですね。
日々のレポートの作成や月次のPL作成は私の担当になりました。

レストランサービスはド素人。


でも、他の人よりも優れているところがある。
これで自尊心を保ちました。

しかし、レポートに携わらない役職者以外のスタッフから見ると、

サービスもできない。
年下の子娘。
マネージメントの能力もない。

そんな私を馬鹿にするスタッフがいたのも事実です。

スタッフの連絡をやりとりをする
グループLINEから外されたこともあります。

この時はさすがに、色々と挫折をしてきた私でも傷つきました。

こんな悩みは可愛いものだと知るのは1年後。
さらに大きなプレッシャーにさいなまれるようになります。

まさか在タイ中にクーデターが起きるなんて

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タイ転職して1年、タイでクーデターが発生。

外国人はタイ旅行を避けるようになりました。
それによって観光業も大打撃。
一気にレストランのビジネスも落ち込みました。


タイには約70,000人の日本人が住んでいる。
「日本人に営業をしてこい!」
部長から指示が出ます。

日本人がたくさんいる。

見かけはまるでブルーオーシャン
でも実際はライバルだらけ。
日本料理のレストランは年々増加。

国の状況も相まって、どんどんと苦しい状況に落ちていました。

部長からのプレッシャーが日に日に増していきます。

当時レストランには私の他に、2人も日本人シェフが常駐。


ホテル内のいちレストランとしては、日本人の人件費があまりにも大きい。
しかし売り上げは下がる。

そんな状況で、レストランに貢献していない。
そう判断された私はプレッシャーを受け、
それが嫌になり逃げ出すように辞表を出しました。

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いい子ちゃんで居続けたかったから逃げ出したのです。

有給消化中の1ヵ月で、次の仕事をみつけなければなりませんでした。
当時27歳の私。


この時は日本に帰りたいと思わず、タイで引き続き挑戦したいと思っていました。

ホテル業界から出よう。
10年頑張った。
逃げたのにやり切った感がありました。

でも、ホテルの仕事以外、今までしたことがありません。
生まれて初めて転職エージェントに登録。

面談に行ったのは12月のクリスマス頃。

私が探していたのは日系企業
多くの日系企業が日本同様に年末年始は長期休暇。
焦る私に、紹介された会社は3つ。
すぐに3社とも面接。
全て一次面接は合格。

ただその中でも、私がやりたかったのは秘書という仕事。

それができるのは、日系企業の車載パーツ工場でのお仕事でした。

ここの社長との出会いで人生が好転する。

面接でお話しをした直感で、
そんな根拠のない自信が芽生えました。

信じ続け、願いが叶い続けた私は劣等感を忘れた

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二つ返事で決まり、タイを出ることなく無事に転職。

そこから生まれてはじめて自分の力で一人暮らし。
家を探し、
引っ越しをし、
新しいことに挑戦。

新しい会社で働き始めてからは
毎日が本当に楽しかった。

自分の特技「英語」を生かしたお仕事。


国外のグループ会社からタイにいらっしゃる方々のお手伝い。
会社内の従業員向けのイベント運営等。
今までの経験が十分に生かせる場所。
そんな会社に飛び込むことができました。

ホテルを出たことで家を借りるなど、
固定費は増えました。

でもそれ以上に給与が上がり、
旅行やゴルフ、
今までやりたくてもできなかったことに
どんどん挑戦しました。

毎日が楽しくて仕方ありませんでした。
そして、奇跡的な運命の出会いをします。

駐在で来ていた日本人の独身男性との出会い。
夫です。


マレーシア在住の友人が遊びに来る。

シンガポール在住の友人と一緒で、
その子のタイ在住のお友達と一緒に食事をするよ。
一緒にどう?

なんともインターナショナル!
楽しそう!ぜひ♪

意気揚々と参加しました。

そして、そこで出会ったのが夫です。

夫に出会った時の印象は、
日本人の男性がひとりでタイにいるなんて変わってる。
そう思いました。

大抵の大手の駐在員は、駐在をきっかけに結婚。
家族帯同で移住をしてきていました。

1人できている人は、
タイの夜遊びが好きか、
実は男性が好きと言うような人が大半。

ホテル勤務時代はそんな方たちの接客をしていたので、偏見の塊でした。
そして、この偏見はタイにいる多くの日本人女性が持っていました。

その夜はご挨拶程度に名刺交換をしただけ。

特に話すこともありませんでした。

ただ、その後友人たちが気を回してくれてからは
周りも驚くほどとんとん拍子で交際がはじまりました。

 

分かれ道


出会って、一月後にはクリスマス。

私はこのチャンスを逃してなるものか!
こんなに素敵な男性に出会うことなんか一生ない!

そう思いました。

理想の彼氏像は、
この人私に尽くしてくれるなんて嬉しい!最高!

夫に出会うまではそんなふうに思っていました。

私の知らないことをたくさん知っている。
私以上に引き出しをたくさん持っている。
この人のこともっと知りたい。

夫はそう思えるはじめての人でした。

クリスマスにデートの約束。

ホテルのクリスマスディナーに行きたいとリクエスト。
プロ彼女のように100%狙ったわけではありません。

ただ、
タイでも有数の高級ホテルでのディナー
素敵な夜景
お酒も飲んでいる
30代前半男性
20代後半女性と2人きり

告白されたらいいな。
いや!この状況で告白されるしかない。
変な自信がありました。笑

ただ、相手の緊張が伝わり私も緊張していました。
告白されたのに聞き逃し、
もう一度言ってくださいとお願いしました。笑

でも、この出会いで私は
「天国と地獄」
両極端の感情を持つようになりました。

忘れていた劣等感が肩をたたいた

頭抱える

22歳で海外に出た私。

日本の友人の結婚式には帰ったことはありません。
「結婚」「妊娠」「出産」
同年代がどんどんと先に進んでいく、
そんな環境とは程遠い暮らしをしていました。

自分自身で働き、
自分自身で好きな国に行き、
心の底から自由!

信じこんでいました。

ただ、駐在員と付き合う。
そして、その周りの人たちとお近づきになる。

自由だ!
そう思っていた気持ちの裏に隠れた不安が
一気に爆発しました。

・彼氏はいるが結婚していない
・仕事はしているが年金はない
・保険にも入っていない
・日本から離れすぎた。
 今後日本に帰ったところで馴染めるかがわからない
・駐在員のように家賃補助や駐在手当などの
 福利厚生で守られていない

会社で秘書をし、日本人のサポートをしているから見えてきた。

今まで見ないふりをしていた不安が、
良い意味でも悪い意味でも
一気に自分の身近になってしまいました。

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結婚すれば劣等感から解放されると信じていたんです。

私は結婚を焦りました。
付き合いだして3ヶ月。

29歳になった私は必死でした。

「一緒に住みたい」と言ってぐっと押してみたり
タイは停電がよくあるのですが、
そんな時に助けてと押しかけてみたり。

それでも、付き合いだして1年を過ぎるまではのらりくらりとされました。

付き合って1年目のクリスマス。
頭から結婚の文字が片時も離れません。

30歳の壁。


女性にとってはかなり高いものかもしれません。
その時の私はこの数字に取りつかれました。

ここで何もなかったら
30歳になったら国を変えよう。


そう思い、中国転職をも考えるようになっていました。

もっと多くの人と話したい。
中国語を話したい。

と言う自分の夢に近づきたいと切り替えていこうと思ったのです。

付き合って1年が近づいてきた頃、
ご両親の話をしてくれるようになりました。

プロポーズははっきりとしたものはありませんでした。

ただ、

「お金のことは心配しないでいい」
「好きなことをしていてくれればいい」

そう言われていました。

その言葉とご両親の話が出てきたので、確信。
これは結婚が近いなと思い、一人で浮かれました。


でも、そう簡単にはことは進まなかったんです。

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あとで聞きましたが、
結婚を1年間渋っていたのは

「私の最終学歴=専門学校卒」

と言うのが引っかっていたそうです。

夫の家族は国立大卒や有名私大卒のエリートばかり。
お父様は大手メーカー勤務
お母様のご実家は開業医。
お姉様夫婦は医療従事者
夫自身は大企業勤務

かという私は、
最終学歴は専門卒
社会人8年で転職5回

ホテル業界柄、転職をして
スキルアップ&タイトルアップ」
をしていきます。

でも、それを知らない他の人から見れば、
ただふらふらとしているように見えたんだと思います。

これだけ見ると、夫のご両親は心配したと思います。

今ならそう思えます。
でも、当時の私はそんなふうに思えませんでした。

学歴が無いと結婚できない?

ただ、悲しくなりました。

数日後「釣書(つりがき)が見たい。」
釣書とは、家族の経歴をまとめたもの
連絡がありました。

身内のことをこんなにも調べられるのか。
当時は自分が疑われていると言う気持ちでいっぱいでした。

劣等感だらけの私は、
家族の偉大さに改めて感謝しました。

私の家族は6人家族。

父は国立大卒、大手企業管理職。
母は専業主婦。
忙しい父に頼れることが少ないなか、
4人の子どもを育て上げました。

弟は、国立大学院卒、大手企業の設計技術者。
妹2人は医療従事者。

私の家族は、私以外は凄い人たちばかりです。

そう、私は家族の中で落ちこぼれなんです。

結婚で改めて強く
「劣等感」
を抱くようになっていった私。

人生は暗転していきました。


To be continued....★

第四話でお待ちしております!

ワンクリック世界につながる (1)

 

強く望めば未来が開けることを知った ~第二話~

見出し画像
 

誰もがうらやむ会社の看板で輝こうとした劣等生

世界最高峰のホテルで社会人生活をはじめた私。


認めてもらいたい私。
いい子ちゃんの私。


認められたくて、はめをはずせいないいい子ちゃんの私。
自信がない私が、夢を実現。
本当に楽しかった。

オープンに合わせて7月入社だった私。
せっかく自由な時間がある!

香港に行こう!


同期入社の友人とフラッグシップホテルを見に行くことを計画。
この旅で根性がつきました。

初海外一人旅で迷子になった20歳女子

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2人旅行のはずが、友人がやむを得ず当日にドタキャン。
思いがけず一人旅になり、出発までは不安でいっぱい。


でも、この経験が海外でも一人でできる。
その自信がつくきっかけになりました。

飛行機で入国書類の書き方がわからず、隣のサラリーマンに教えてもらう。
夜市のバスツアーで迷子になり、血の気が引く思い。
ガイドさんに泣いて電話し、迎えに来てもらった

今ではいい思い出です。

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そして入社。

毎日が本当に楽しかった。
ホテルはまだ開業準備中。
みんなで開業に向けて準備していく。

毎日バタバタでしたが夢中でした。


そんな大好きなホテルでの勤務。
嫌なことも特にありませんでした。
毎日本当に楽しかったです。

2年目も終わりのこと。

突然、転機はやってきました。
それがニューヨーク旅行だったのです。

アメリカ (3)

留学経験のある同期との旅行でニューヨークに行きました。

実は、同期の半分以上が海外経験者。
帰国子女や短期留学経験者ばかり。

その中でも、自力でアメリカの大学を卒業したその子は輝いて見えていました。


どこに行ってもスマートにこなすその子を見て、

かっこいい!
やっぱり海外で挑戦したい!


そう思いました。

その当時の私のTOEICは550点。
いわゆる大卒の平均点。

決してずば抜けて良いわけでもなく、
むしろ足りないくらい。

自分1人の力で海外に行く勇気はありませんでした。

旅行から帰国後すぐ、ホテルの有償インターンシップを斡旋する会社があることを知りました。

迷わず説明会に参加。
なんと、会社の先輩がスピーカーとして登壇していました。

直感が働き、私はこれでいくんだ。
そう思いました。

直感を信じて生きてきた私の引き寄せ力

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この3ヶ月後。
私は給料3ヶ月分の金額を投資し、
有給インターンシップに参加しました。

あのニューヨークから3ヶ月後のことでした。
私の人生は大きく前進したのです。


転職先はモルディブ
常夏の南の島。

コバルトブルーの海に白い砂浜。
多くの方はハネムーンやセレブ御用達のリゾートのイメージがあると思います。

行ったこともない未知の国。

当時はLINEなどもなく、電話面接。
電話では「イエス」しか答えていなかった。

そんな私が、1つの島に1つのリゾート。
隔離された環境に飛び込みました。

英語が全然わからないことに衝撃を受け、
島に着いた初日は本当は逃げ出したかった。


島から出るにも「スピードボート」か「水上飛行機」に乗らないと出ることができない。

逃げられない。


逃げ癖のある私には逆によかったのかもしれない。

とにかく、やるしかなかった。


島に到着した頃はまだまだ開業準備の工事中。
島の至るところに重機がありました。

そんな中、スタッフが世界中23カ国から集まり、
準備を進めていました。

日本人のいない環境。

得意だと思っていた英語もわからず初日に号泣。
東京で得た変なプライドはポキッと簡単に折れました。

ただ、幸運にも英語を第二外国語とするスタッフ向けの英語レッスンがあり、参加。
無料で英語が勉強できるなんてラッキー!
そう思いました。

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多くの仲間と、最初は英語が喋れずバカみたいといわれて泣いたあの日もいい思い出です。

そこがモルディブでなければ、
新卒の給与3ヶ月分を払っていなければ
私は逃げ出していたと思います。

働きたい!海外に出たい!


強くそう思って日本を出てきました。

でも、
「コミュニケーションが取れない」
という大きな壁が何度も立ちはだかる。

何度もくじけそうになりました。

逃げられない環境。

本当に幸運でした。

一緒の部署で働くスタッフの多くはとても親切。
英語もろくにしゃべれない私の話を聞いて、アドバイスをくれました。

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特に、ドイツとスリランカのミックスの同い年のジェニーは1番の理解者でした。

彼女はモルディブに来る前は、
アメリカのホテルで働いていました。

アメリカが初めて。
ホテルで働くことが初めて。
右も左もわからない。
そんな状況だったそうです。

その時に出会った日本人女性の同僚が

「心の支え」


だったそうです。

親身になって何から何まで教えてもらった。
そのことにとても感謝している。

その気持ちから、こんな私にも優しく寄り添ってくれました。

日本人は世界的に見てもとても誠実で真面目です。
「和の心」と「協調の輪の心」は、実力社会の海外であってもとても重宝されます。

そんな女性がいると言うことを知れた。
そのことも、海外に出たての私の大きな励みとなりました

そんなジェニーは半年も経たずに
ドバイに転職していってしまいました。

私もちょうど、
「コミュニケーションが取れない」
一番つらい時期を抜けた頃でした。

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モルディブ2年目にはステップアップをしたい。
別のリゾートに転職をしました。

世界で初めての海中レストランを作ったリゾート。


その転職も幸運が重なりました。

東京時代の上司に
モルディブに私の元上司がいるよ。連絡してみてね」
と言われていました。


モルディブの国内転職を考え始めてすぐに連絡を取ったところ、
すんなりと面接が決定。

一度だけ人事部長との電話面接を行い、
翌月には働き始めていました。


モルディブの中でもハイクラスで有名なリゾートに転職できた事は、私にとって自信になりました。

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転職から半年後。

そのリゾートにジェニーがマネージャーとして着任しました。

奇跡的な再会。

本当に嬉しかった。
私のつらい時にはジェニファーがいる。
そんなモルディブ生活でした。

3.11の震災で痛感した日本の遠さ

そんな楽しいモルディブ生活。
まさかモルディブから出るなんて思ってもいませんでした。

きっかけは、日本で起きた311の東北地震


勤務中に起きたその出来事は、私を大きく揺さぶりました。

「家族は大丈夫?」
「友達は大丈夫?」

津波を経験したモルディブ人たちは一斉に私に連絡をくれました。

モルディブは日本から遠すぎる。

直行便もない。
国際空港からリゾートまではさらに乗り継ぎが必要。
日本で何かが起きたときに帰りたいのに帰れない。

このできごとが、私の東南アジアの国々への転職を大きく後押ししました。

転職を考えるようになりってから2ヶ月後。
マレーシアのホテルに就職が決まった私がいました。


東京でもモルディブでもハイクラスのホテルに勤務。
同じような5つ星ランクのホテルで探していました。

幸運にもクアラルンプール内でも有名な高級ホテルに転職。
ただしこの転職は、私には黒歴史となりました。

平和ボケの私に起きた「試練」と「救い」

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モルディブの客層は、基本的に
「のんびり」と「ゆったり」
としたゲストばかりでした。

バケーションやハネムーンでHappyな方ばかりです。
ビジネスのお客様はほとんどいませんでした。

それに比べてクアラルンプールは大都会。


東南アジアの中でも急成長ぶりで大注目を浴びている。
そんな経済が回る場所。
ビジネス利用のお客様が大半だということは容易に想像がつきますよね。

でも、私は平和ボケしてたんです。


基本的にHappyなゲストしか接していなかった2年半。
4、5本頭のネジを落としてきた私。

自分自身で何度か訪れたクアラルンプール旅行が楽しかった。
そのイメージしか持たずに飛び込みました。

人の流れのスピード感にまずは翻弄されました。

まるで”ど田舎”から”大都会”に出てきた。

そんな感じです。

当時、ホテルにとって日本人ゲストはドル箱。

中国が台頭しているとはいえ、まだまだ日本人マーケットが盛り上がっていました。

企業の重鎮たちが定宿とするホテル。


毎日VIPがご到着とご出発を繰り返していました。

求められるのは、日本人が日本で受けるようなキメの細かいサービス。
モルディブのおおらかな環境とは真逆でした。

接客をする日本人スタッフは私を含めて2人。


ホテルに住み込み、
同じ部屋で過ごし、
同じ場所で働く。

そんな生活でした。

部屋をシェアすることについての問題は特にありませんでした。
と思っていたのは表面的な私です。

いつも誰かに見られている。
一人になれない。
心が落ち着かない状況。

それ以上の悩みは、忙しさのスピードについていけない。

私を数か月悩まし、うつ状態になりかけました。
中学生でいじめにあって以来の大きな挫折です。


海外にきて、はじめて

「日本に帰りたい」

そう思ったのもこの時です。

初めて母に弱音を吐きました。
クアラルンプールにきて1年足らずでの出来事です。

1年だけ頑張ろう。
2年の契約だけど続けるなんて無理だ。

そう思っていた矢先、
タイからヘッドハンティングのお話がありました。

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知らない国の番号からの着信

なんだろう。
怪しい。

ただそう思いました。

でも、もしかするとどこかで出会ったお客様からかもしれないと思い電話に出ました。

そこからとんとん拍子で面接、採用と決まりました。
ちょうど1年マレーシアで働きタイに転職。

「ここから逃げ出したい。」

そう思っていた私を、まるで誰かが見ているかのようでした。

そう、私はマレーシアからタイに行くことに決めました。

To be continued....★

第三話でお待ちしております!

ワンクリック世界につながる (1)

 

世界のホンモノを知るはるかの副業相談所 ~第一話~

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世界のホンモノを知るはるかの副業相談所 ~第一話~

 

海外生活9年!今だからこそ日本で副業支援に立ち上がる

子育て真っただ中の私。
そんな私は今、ネットでお仕事をし、
いろいろな人にネットビジネスのサポートを提供しています。

私は実は、
世界有数のホテルで世界中で働いた経験があり、
夫はエリートサラリーマン。

なぜ、こんな私が副業をはじめたのか。
なぜ、いろいろな方のネット集客をお手伝いしているのか。
なぜ、ネット集客を応援したいのか。
そんな話をここで公開したいと思います。

 

記憶スイッチを押しそびれたお花畑少女

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幼い頃の記憶が全くない私。

実は小学校6年生まで記憶のない。
それくらい、小さい時の記憶が全くないのです。
あなたの記憶はいかがですか?

記憶のスイッチが入るきっかけを知っていますか?
「自分の身に危険があった時」
と聞いたことがあります。

小6まで記憶がない私は、

大事に大事にされ
愛されて育ってきた。

と言うことになります。

でも、その当時の私は自分が幸せだとは思えませんでした。
愛されているとは感じることができませんでした。

「本当に私は愛されているのか」

いつも自分に問いかけていました。
それが私の少女時代の記憶です。

 

お姉ちゃんだからと自分を押し込めていった少女時代

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4人きょうだいの私たち。
両親が、特に、母が弟や妹に手のかかる様子を見ていたときに、

「お姉ちゃんだから」手伝わなくちゃ。
「お姉ちゃんだから」やっちゃだめ。


そんな風に考えていたと思います。

そんな想いを抱えた私は両親に必要とされているのか。

知らない間に

「親に認められたい」
「親のレールの上で、いい子ちゃんに見られたい」

こういう思いが、こういった思考が、私の奥底に刺さったかもしれません。

のちに破天荒になる私の人生を知る由もありませんでした。

 

孤独 女の子

父は大手のサラリーマン、一般家庭の中では中の上だったかもしれません。
母は専業主婦。
家族は比較的多かったかもしれません。
きょうだいは4人。

「おかえり」


家に帰れば必ず声をかけてくれる、優しい母。
お腹がすいたと言えば、ご飯が出てくる。

うっすらとあるそんな記憶が、今の私の中の優しい母。理想のお母さん像。

これが、私を心を締め付けています。
なんせ私は、フルタイムで働く2児の母。

そんな環境の違いにも敏感な私。

私はきょうだい一の劣等生だったのです。

私は劣等感にさいなまれていました。

弟は父以上に優秀で国立大学院卒、大企業の技術者。
妹2人は早くから夢を持ち看護師になり、
手に職を持ち、夢を叶えて将来安定。
私は・・・・。

専門学校卒。


そんな優秀なきょうだいのなか、1人だけ破天荒な人生を送ってきました。

22歳で海外に飛び出し、

3か国を回り、

現地で働き。

日本人との結婚を機に、やっと日本に帰ってきた破天荒な人生、それが私。

 

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自由って最高!
自由なことをして楽しんでいる!
年齢を重ねれば重ねるほど、人生楽しくなる!
そう思っていました。
いや、思い込もうとしていました。

ある日、不安の波がやってきたのです。
それは27歳のとき。

きょうだいも成人して、
世界を渡り歩きながら、ふと弟たちを見たときに
みんな優秀で夢をかなえているのを見て、


「あれ?私何してるんだろう・・・。」

 

「1番収入の低いお姉ちゃん。」

学生時代頑張った2人。
そして手に職をつけようと頑張っている学生の末っ子。
そして、やりたいことを自由にやってきた私。

まるで「ありとキリギリス」の状態に陥りました。

海外で働くことは私の夢で、プライドで、希望で。

自分の人生に自信を持ってきたのに…
ふと振り返った。

「私は嫌なことから逃げてきたのかもしれない。」
「海外に逃げてきたのかもしれない。」
「周りの声を聞きたくない。見たくない。」


海外にいる私はハッと気づいたのでした。

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私は中学の時から夢を追いかけていたのです。

中学生の私は夢を抱きました。
私の人生を決める夢に出会ったのもこのとき。

そして同時に、初めての挫折を経験したのも中学校時代でした。

小6まで記憶のない私は、きっと幸せだったんだと思います。
そんな私の人生の暗黒時代のスタートが、まさに中学生時代でした。

入学早々いじめの対象にされたのです。

 

いい子ちゃんな私がいじめのターゲットになった日

教室

よくある話かもしれません。

「ただ単に気に食わない」

そんな理由で、クラス全員からハブられました。

クラス全員で交換日記が回り、私の悪口が書かれていました。


学校に行くのが本当に嫌になった私がいました。

「まさか自分が…」

あまりにもショックが大きい。
でも、親にも心配をかけたくなかった。
だって私はいい子でいたかったから。


行かないことで、自分が弱いと認めるのも嫌だった私がいました。
ただその想いで、学校には通い続けていました。

心の奥底では、自分が弱い、親に心配を掛けている自分がどうしても許せなかった。

クラスから離れれば学生生活も楽しいと思ってた。
でも、違った。

 

軽い気持ちで入部したテニス部でもイジメの標的に

中学入学と同時に、ただの憧れでテニス部に入部。

小さい時から負けず嫌いだったと両親から聞いています。
今も負けず嫌いだと思います。

しかし、学年で1番誕生日の遅い私は、何をしてもできない子だったのです。

誰よりも走るのが遅かった。

幼稚園の時の写真には
泣きながら走っている写真しかありませんでした。
私はそんな自分が恥ずかしくて、嫌で、許せなかったのです。

瞬発力も鍛えられて、かわいいユニフォームが着られるテニス部に入りました。
しかし、ここでもいじめにあってしまったのです。


なんと、クラスのいじめの主犯格はテニス部だったのです。
クラスよりさらに狭い部活動という世界。
部活中に話しかけない。
無視。
耐え切れずに脱落。

私は耐えかねて逃げ出しました。

そんな中でも、救う人はいました。
私が学校に行けたのは彼女のおかげだったかもしれません。

 

うずまき

中学校のいじめは、どんどん順繰りに起きていきます。
そのうち主犯格が孤立していくのを目の当たりにした。

恐怖心だけでは人をコントロールし続けていくとはできないんだ。

自分はそういうことをしないでおこう。
そんな気持ちになりました。

「良いこと」
「悪いこと」


どちらも本人に返るのだと知りました。

その時、ざまあみろとは思えませんでした。

学校の先生に気持ちの対処法を教えてもらい、
ただ、かわいそうにと思いました。
私はこの経験でいい勉強ができたし、
その子が今後うまくいけばいいなと思っていました。

やっぱり人との接し方って大事だなと思いました。

どん底の暗黒期を抜けたら夢が近づいてきた

ひまわり

2年生。
クラス替えで心機一転、合唱部に入りました。
中心メンバーになるくらいのめりこみました。
テニスは好きだったけど、やっぱりスポーツは苦手でした。

そんな中、中学3年生は合唱部の大会を蹴ってまで
やりたいことが見つかったのです。

それが留学だったのです。

ニュージーランドへの留学でした。
3年生の夏。
そんな機会があり、チャンスがありました。

親には内緒で申し込み、
事後報告で怒られたのもいい思い出です。

なぜだかわからないけど、

「どうしても行きたい!」

そう思い、いい子の私が初めて反発をしました。


中学生最後の夏休みに短期留学のチャンスを得た私。

各中学校から代表が1人。
応募者は4人。
面接後、最後はあみだくじ。
奇跡的にも当たりくじ。
1年生の時に苦しい思いをしていたことが、
大きな喜びとなって帰ってきたような感覚でした。

3年生の夏休みにはいろいろな部活が大会で忙しい時です。
部活のみんなに申し訳ないと思いつつも、

「どうしても行きたい!」

自分の行きたいという欲求を満たしました。
この留学経験が私の今後の人生に大きく影響をしています。

夏休みの3週間のホームステイ

そのうち数泊はホテルに泊まりました。
そこで運命の出会いがあったのです。
ホテルのお土産屋さんに入った時に、日本人の女性スタッフがいました。

ほんの数分お話ししただけです。
私には大きな衝撃でした。

海外で活躍してる
海外で働く
しかも女性がいるんだ

私にとっては斬新な出会いでした。
雷に打たれたような感覚。
「そうだ、海外で働こう」

夢を見つけた瞬間、運命が回りだした

上を向く花

海外で働こうと決めた私は、
高校は英語科を選びました。
幸運にも推薦で合格。

父には私立に行くお金はないと言われ、
公立でなければ、進学できない。
担任の先生には推薦では無理と言われ。
私にとっては、「落ちたら」という選択肢はありませんでした。
背水の陣での受験。

私の未来を、
海外での生活を、
この経験すべてが、
この時点から暗示し、導かれていたのかもしれません。


憧れの高校生活。

そんな高校の入学ですが、とにかく楽しかったです。
生徒会や部活で、何かと運営することにかかわり、
充実した学生生活。
禁止されているバイトも隠れてやっていました。

なんせ、働いてみたかった私。
いろんことにチャレンジしてみたかった私。
すべてが自分の思い通りになる時期でした。

やじるし

夢に向かった私はどっぷりと
「英語」
「コミュニケーション」
の勉強に浸かっていきました。


そんな私が目指したのは

ホテル業界で働く

ということ。


高校時代も中学3年生で出会ったあの女性のことが忘れられませんでした。
それくらい、中3で行ったニュージーランドでの衝撃が強かったです。

そして高校の卒業旅行はオーストラリアで1週間のホームステイ。
さらに海外への憧れが増していきました。

ホテルなら海外に行きやすい。
ホテル業を目指す。
心に決めました。


高校の担任の先生は立教大卒。
「立教大の観光学部に通ったらどうだ?」
と押してくれました。

ただ私は、どうしても早く働き出したかった。
建前は「やりたいことがあるから近道を選択した」
こう先生にも、親にも説明しながら、勉強したくなかった私がいました。


そう、「大学受験するということから逃げたかった」

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常に失敗するのを恐れ、
失敗する前に逃げ出す私がいました。

ホテルの専門学校に行くと
「英語を勉強した」
がとても強みになりました。

英語がペラペラかというとそうではありません。
ただ、英語の理解力は中の上。
他の人たちに比べると頭ひとつ抜けていました。

高校時代に頑張った甲斐もあり、インターンシップ先の選考でも役立ちました。
憧れだった都内有数の広大な庭園を持つ外資系五つ星ホテルに決定。

インターンで自信を得た私は、目標を絞りました。

実はホテルの専門学校に入ったのも、はなから一軒の高級外資系ホテルしか見ていませんでした。

ご存じですか?

世界の一等地にしか出店をしない、スモールラグジュアリーのーの高級ホテルの開業。

私の目標はそこにしかありませんでした。

私はそこで働きたい。
いつも逃げていた私が、
初めて高い目標、高い夢を叶えるために自然と勉強ができる私がいました。

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私はずっと外資系の高級ホテルを目指していました。

勉強にも力が入りました。

そこにまず入り、それから海外で働きたい。
海外を旅してまわりたい。
海外を拠点に活躍したかった。


どうしてもそのスタート地点がこのホテルでなければならなかった。

その中で受験しました。
応募者は2000人だったと聞いています。
そのうちの100人を目指しました。

ある日、先生から
「お前、合格だぞ!お前格したぞ!」
先生の笑顔が今でも忘れられません。

そう、私は希望通り、合格したのです。

入社面接は30分の英語面接1回きり。
面接官とは一対一。
夢中でしゃべっている私がいました。

今までの集大成を今ぶつけないと、いつぶつけるんだ!

こういう思いで、全身全霊で打ち込んだあの時。
よく頑張ったと自分でも褒めてあげたいです。
憧れのホテルへの道が開けたのです。


2年生はインターンでの頑張りが認められ、
バイトに切り替えてもらい、即戦力として働き続けました。

専門学校でも、毎日が楽しかった。
高校の時のように運営委員会に所属。

作り上げるということ
立ち上げるということ

に楽しさを感じました。

楽しく活動していただけですが、卒業時には優秀賞をいただきました。
これがのちに、国内外のホテルの新規事業立ち上げにも大きく生きてくることになります。

小学校時代の記憶のない私の夢へのドラマがスタートを切った。


心からそれを感じた時期でした。

To be continued....★

第二話でお待ちしております!