世界のホンモノを知るはるかの副業相談所 ~第一話~

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世界のホンモノを知るはるかの副業相談所 ~第一話~

 

海外生活9年!今だからこそ日本で副業支援に立ち上がる

子育て真っただ中の私。
そんな私は今、ネットでお仕事をし、
いろいろな人にネットビジネスのサポートを提供しています。

私は実は、
世界有数のホテルで世界中で働いた経験があり、
夫はエリートサラリーマン。

なぜ、こんな私が副業をはじめたのか。
なぜ、いろいろな方のネット集客をお手伝いしているのか。
なぜ、ネット集客を応援したいのか。
そんな話をここで公開したいと思います。

 

記憶スイッチを押しそびれたお花畑少女

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幼い頃の記憶が全くない私。

実は小学校6年生まで記憶のない。
それくらい、小さい時の記憶が全くないのです。
あなたの記憶はいかがですか?

記憶のスイッチが入るきっかけを知っていますか?
「自分の身に危険があった時」
と聞いたことがあります。

小6まで記憶がない私は、

大事に大事にされ
愛されて育ってきた。

と言うことになります。

でも、その当時の私は自分が幸せだとは思えませんでした。
愛されているとは感じることができませんでした。

「本当に私は愛されているのか」

いつも自分に問いかけていました。
それが私の少女時代の記憶です。

 

お姉ちゃんだからと自分を押し込めていった少女時代

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4人きょうだいの私たち。
両親が、特に、母が弟や妹に手のかかる様子を見ていたときに、

「お姉ちゃんだから」手伝わなくちゃ。
「お姉ちゃんだから」やっちゃだめ。


そんな風に考えていたと思います。

そんな想いを抱えた私は両親に必要とされているのか。

知らない間に

「親に認められたい」
「親のレールの上で、いい子ちゃんに見られたい」

こういう思いが、こういった思考が、私の奥底に刺さったかもしれません。

のちに破天荒になる私の人生を知る由もありませんでした。

 

孤独 女の子

父は大手のサラリーマン、一般家庭の中では中の上だったかもしれません。
母は専業主婦。
家族は比較的多かったかもしれません。
きょうだいは4人。

「おかえり」


家に帰れば必ず声をかけてくれる、優しい母。
お腹がすいたと言えば、ご飯が出てくる。

うっすらとあるそんな記憶が、今の私の中の優しい母。理想のお母さん像。

これが、私を心を締め付けています。
なんせ私は、フルタイムで働く2児の母。

そんな環境の違いにも敏感な私。

私はきょうだい一の劣等生だったのです。

私は劣等感にさいなまれていました。

弟は父以上に優秀で国立大学院卒、大企業の技術者。
妹2人は早くから夢を持ち看護師になり、
手に職を持ち、夢を叶えて将来安定。
私は・・・・。

専門学校卒。


そんな優秀なきょうだいのなか、1人だけ破天荒な人生を送ってきました。

22歳で海外に飛び出し、

3か国を回り、

現地で働き。

日本人との結婚を機に、やっと日本に帰ってきた破天荒な人生、それが私。

 

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自由って最高!
自由なことをして楽しんでいる!
年齢を重ねれば重ねるほど、人生楽しくなる!
そう思っていました。
いや、思い込もうとしていました。

ある日、不安の波がやってきたのです。
それは27歳のとき。

きょうだいも成人して、
世界を渡り歩きながら、ふと弟たちを見たときに
みんな優秀で夢をかなえているのを見て、


「あれ?私何してるんだろう・・・。」

 

「1番収入の低いお姉ちゃん。」

学生時代頑張った2人。
そして手に職をつけようと頑張っている学生の末っ子。
そして、やりたいことを自由にやってきた私。

まるで「ありとキリギリス」の状態に陥りました。

海外で働くことは私の夢で、プライドで、希望で。

自分の人生に自信を持ってきたのに…
ふと振り返った。

「私は嫌なことから逃げてきたのかもしれない。」
「海外に逃げてきたのかもしれない。」
「周りの声を聞きたくない。見たくない。」


海外にいる私はハッと気づいたのでした。

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私は中学の時から夢を追いかけていたのです。

中学生の私は夢を抱きました。
私の人生を決める夢に出会ったのもこのとき。

そして同時に、初めての挫折を経験したのも中学校時代でした。

小6まで記憶のない私は、きっと幸せだったんだと思います。
そんな私の人生の暗黒時代のスタートが、まさに中学生時代でした。

入学早々いじめの対象にされたのです。

 

いい子ちゃんな私がいじめのターゲットになった日

教室

よくある話かもしれません。

「ただ単に気に食わない」

そんな理由で、クラス全員からハブられました。

クラス全員で交換日記が回り、私の悪口が書かれていました。


学校に行くのが本当に嫌になった私がいました。

「まさか自分が…」

あまりにもショックが大きい。
でも、親にも心配をかけたくなかった。
だって私はいい子でいたかったから。


行かないことで、自分が弱いと認めるのも嫌だった私がいました。
ただその想いで、学校には通い続けていました。

心の奥底では、自分が弱い、親に心配を掛けている自分がどうしても許せなかった。

クラスから離れれば学生生活も楽しいと思ってた。
でも、違った。

 

軽い気持ちで入部したテニス部でもイジメの標的に

中学入学と同時に、ただの憧れでテニス部に入部。

小さい時から負けず嫌いだったと両親から聞いています。
今も負けず嫌いだと思います。

しかし、学年で1番誕生日の遅い私は、何をしてもできない子だったのです。

誰よりも走るのが遅かった。

幼稚園の時の写真には
泣きながら走っている写真しかありませんでした。
私はそんな自分が恥ずかしくて、嫌で、許せなかったのです。

瞬発力も鍛えられて、かわいいユニフォームが着られるテニス部に入りました。
しかし、ここでもいじめにあってしまったのです。


なんと、クラスのいじめの主犯格はテニス部だったのです。
クラスよりさらに狭い部活動という世界。
部活中に話しかけない。
無視。
耐え切れずに脱落。

私は耐えかねて逃げ出しました。

そんな中でも、救う人はいました。
私が学校に行けたのは彼女のおかげだったかもしれません。

 

うずまき

中学校のいじめは、どんどん順繰りに起きていきます。
そのうち主犯格が孤立していくのを目の当たりにした。

恐怖心だけでは人をコントロールし続けていくとはできないんだ。

自分はそういうことをしないでおこう。
そんな気持ちになりました。

「良いこと」
「悪いこと」


どちらも本人に返るのだと知りました。

その時、ざまあみろとは思えませんでした。

学校の先生に気持ちの対処法を教えてもらい、
ただ、かわいそうにと思いました。
私はこの経験でいい勉強ができたし、
その子が今後うまくいけばいいなと思っていました。

やっぱり人との接し方って大事だなと思いました。

どん底の暗黒期を抜けたら夢が近づいてきた

ひまわり

2年生。
クラス替えで心機一転、合唱部に入りました。
中心メンバーになるくらいのめりこみました。
テニスは好きだったけど、やっぱりスポーツは苦手でした。

そんな中、中学3年生は合唱部の大会を蹴ってまで
やりたいことが見つかったのです。

それが留学だったのです。

ニュージーランドへの留学でした。
3年生の夏。
そんな機会があり、チャンスがありました。

親には内緒で申し込み、
事後報告で怒られたのもいい思い出です。

なぜだかわからないけど、

「どうしても行きたい!」

そう思い、いい子の私が初めて反発をしました。


中学生最後の夏休みに短期留学のチャンスを得た私。

各中学校から代表が1人。
応募者は4人。
面接後、最後はあみだくじ。
奇跡的にも当たりくじ。
1年生の時に苦しい思いをしていたことが、
大きな喜びとなって帰ってきたような感覚でした。

3年生の夏休みにはいろいろな部活が大会で忙しい時です。
部活のみんなに申し訳ないと思いつつも、

「どうしても行きたい!」

自分の行きたいという欲求を満たしました。
この留学経験が私の今後の人生に大きく影響をしています。

夏休みの3週間のホームステイ

そのうち数泊はホテルに泊まりました。
そこで運命の出会いがあったのです。
ホテルのお土産屋さんに入った時に、日本人の女性スタッフがいました。

ほんの数分お話ししただけです。
私には大きな衝撃でした。

海外で活躍してる
海外で働く
しかも女性がいるんだ

私にとっては斬新な出会いでした。
雷に打たれたような感覚。
「そうだ、海外で働こう」

夢を見つけた瞬間、運命が回りだした

上を向く花

海外で働こうと決めた私は、
高校は英語科を選びました。
幸運にも推薦で合格。

父には私立に行くお金はないと言われ、
公立でなければ、進学できない。
担任の先生には推薦では無理と言われ。
私にとっては、「落ちたら」という選択肢はありませんでした。
背水の陣での受験。

私の未来を、
海外での生活を、
この経験すべてが、
この時点から暗示し、導かれていたのかもしれません。


憧れの高校生活。

そんな高校の入学ですが、とにかく楽しかったです。
生徒会や部活で、何かと運営することにかかわり、
充実した学生生活。
禁止されているバイトも隠れてやっていました。

なんせ、働いてみたかった私。
いろんことにチャレンジしてみたかった私。
すべてが自分の思い通りになる時期でした。

やじるし

夢に向かった私はどっぷりと
「英語」
「コミュニケーション」
の勉強に浸かっていきました。


そんな私が目指したのは

ホテル業界で働く

ということ。


高校時代も中学3年生で出会ったあの女性のことが忘れられませんでした。
それくらい、中3で行ったニュージーランドでの衝撃が強かったです。

そして高校の卒業旅行はオーストラリアで1週間のホームステイ。
さらに海外への憧れが増していきました。

ホテルなら海外に行きやすい。
ホテル業を目指す。
心に決めました。


高校の担任の先生は立教大卒。
「立教大の観光学部に通ったらどうだ?」
と押してくれました。

ただ私は、どうしても早く働き出したかった。
建前は「やりたいことがあるから近道を選択した」
こう先生にも、親にも説明しながら、勉強したくなかった私がいました。


そう、「大学受験するということから逃げたかった」

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常に失敗するのを恐れ、
失敗する前に逃げ出す私がいました。

ホテルの専門学校に行くと
「英語を勉強した」
がとても強みになりました。

英語がペラペラかというとそうではありません。
ただ、英語の理解力は中の上。
他の人たちに比べると頭ひとつ抜けていました。

高校時代に頑張った甲斐もあり、インターンシップ先の選考でも役立ちました。
憧れだった都内有数の広大な庭園を持つ外資系五つ星ホテルに決定。

インターンで自信を得た私は、目標を絞りました。

実はホテルの専門学校に入ったのも、はなから一軒の高級外資系ホテルしか見ていませんでした。

ご存じですか?

世界の一等地にしか出店をしない、スモールラグジュアリーのーの高級ホテルの開業。

私の目標はそこにしかありませんでした。

私はそこで働きたい。
いつも逃げていた私が、
初めて高い目標、高い夢を叶えるために自然と勉強ができる私がいました。

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私はずっと外資系の高級ホテルを目指していました。

勉強にも力が入りました。

そこにまず入り、それから海外で働きたい。
海外を旅してまわりたい。
海外を拠点に活躍したかった。


どうしてもそのスタート地点がこのホテルでなければならなかった。

その中で受験しました。
応募者は2000人だったと聞いています。
そのうちの100人を目指しました。

ある日、先生から
「お前、合格だぞ!お前格したぞ!」
先生の笑顔が今でも忘れられません。

そう、私は希望通り、合格したのです。

入社面接は30分の英語面接1回きり。
面接官とは一対一。
夢中でしゃべっている私がいました。

今までの集大成を今ぶつけないと、いつぶつけるんだ!

こういう思いで、全身全霊で打ち込んだあの時。
よく頑張ったと自分でも褒めてあげたいです。
憧れのホテルへの道が開けたのです。


2年生はインターンでの頑張りが認められ、
バイトに切り替えてもらい、即戦力として働き続けました。

専門学校でも、毎日が楽しかった。
高校の時のように運営委員会に所属。

作り上げるということ
立ち上げるということ

に楽しさを感じました。

楽しく活動していただけですが、卒業時には優秀賞をいただきました。
これがのちに、国内外のホテルの新規事業立ち上げにも大きく生きてくることになります。

小学校時代の記憶のない私の夢へのドラマがスタートを切った。


心からそれを感じた時期でした。

To be continued....★

第二話でお待ちしております!